您的位置 首页 kreess

1983:瀧川事件50周年「死して生きる途」

1983年的《朝日新聞》夕刊中有這樣一篇文章,其內容是對著名的瀧川事件乃至二戰前後日本社會思想動蕩的回憶和反思。作者為早年師從瀧川事件主人公——京都大學瀧川幸辰教授的森義宣

1983年的《朝日新聞》夕刊中有這樣一篇文章,其內容是對著名的瀧川事件乃至二戰前後日本社會思想動蕩的回憶和反思。作者為早年師從瀧川事件主人公——京都大學瀧川幸辰教授的森義宣。作為當年此事的親歷者,我想森義宣在1983年寫下的這篇文章有著特殊的意義,文中涉及有對二戰前後日本社會狀況和思潮變化的反思與描寫,也是相關研究不可多得的史料記錄。故而譯後貼在知乎,以饗各位。由於水平有限,用詞遣句甚至對原文的理解也多有謬誤,懇請指正。

註:

1.由於隻是一部分的剪報,所以無法得知這篇文章在《朝日新聞》上刊載的具體日期。見諒。

2.【瀧川事件】科普,來源百度百科:

又名京大事件,是昭和8年(1933年)發生於京都帝國大學的一起壓制思想的事件。1933年(昭和八年)5月26日,首相齋藤發佈命令,對京都大學法學部教授瀧川幸辰作出停職處分。自1914年(大正三年)的澤柳事件中文部大臣奧田義人作出同意開始,在大學中教授的人事變動方面已經形成瞭大學自治慣例,即須經過教授會討論後,根據大學校長提交的情況呈報書作出。由於首相的這一做法否定瞭這項慣例,京都大學法學部全體教師聯名辭職以示抗爭,學生也展開瞭有組織的抗議運動。這一運動也波及到瞭東京大學及其他學校,但由於最終未能實現瀧川的復職目的,京大法學部的教師也因此於7月22日分裂為辭職群和留任群兩個部分,抗議運動因此敗北。瀧川事件標志著在滿洲事變之後日本法西斯化的發展,同時也是知識分子有組織地對此進行抵抗的最後事例。

譯文:

作者介紹:

森 義宣

一九一二年生於岡山市,一九三五年京都大學法學部畢業,在立命館大學供職四年後於大阪大學任教授,為前法學部部長。一九七五年辭職,現為立命館大學等的兼課講師(譯者註:針對1983年而言)。主要著作有《政治學史》(三和書房)《歐洲近代政治史》(同前)《政治思想史》(世界思想社)

“向死而生”的感慨:大學的苦難時代,兼談瀧川事件50周年回想

(一)

那一天正是初夏時節,天氣酷熱難耐,即使到瞭傍晚也沒有絲毫變化。大教室裡湧進瞭近千學生,悶熱與亢奮交織,讓我感到有些難受。那是昭和八年五月二十六日下午五點半左右的事。學生們擠滿瞭京都大學第一教室,等待著從東京發來的一封電報。

這封從文部省發至京都大學的電報內容表示:授刑法課的瀧川幸辰教授由於其著作和學說在社會上造成瞭惡劣影響(文部省違法且采取瞭不當的手續),經查適用於高等文官分限令[i]之內容,故對其進行單方面的停職處分。消息一經傳來,我們的恩師們決定集體辭職以示抗議。那時候,他們一齊趕來第一教室,向我們說明瞭他們不得已而辭職的決定,如此我們學生也隻得無條件地接受瞭。還記得當時我心中有一種高漲的情緒,包含著某種期待感和快感——一種為實現正義而參與此事的喜悅。懷揣這種情緒,我等待著這些事發生。

(二)

正如大傢所知,大正二年至三年(1913—1914)發生於京都大學的澤柳事件亦稱第一次京大事件,是以下兩條規章確立的緣由:教授的人事調動應基於教授會的討論,再由校長呈報至文部大臣處批準。這是(京都大學)法學部和文部大臣多次協商談判的結果。而二十年後,這些規章被文部省的做法所否定時,這自然成為瞭引起第二次京大事件發生的原因。

在我升入大學二年級的四月下旬時,這次事件突然被報紙所報道。一方面,我們法學部的學生很快向畢業高中和同窗會團體的幾名代表通氣,相互研究事態的真相和過程,這其中也有青年教員相助;另一方面,我們收集瞭德國大學與瞭解此事的我國國立大學所作關於《大學的自由應是學問自由以及大學(學部)自治》的研究成果,並三人一組分工,向校內其他學部的教員做工作,向他們提供有關的信息,說服他們為瞭學校和法學部而與我們站在同一戰線上。也許是說服力不足的原因,基本上沒有值得一提的成果。

就這樣到瞭五月二十六日,本文開頭所寫的場面出現瞭。(法學部)全體教員從等待的學生之中登上講臺,在法學部長宮本英雄接收所有教員的辭呈之前進行瞭鄭重地辭職報告,學生們對此也很感動,接受瞭這一事實。

(三)

當時,世界正處於(經濟)大恐慌之中。大宅壯一於昭和五年(1930)末左右,記錄下瞭農村貧困和饑餓的狀況,日本全國尤其是東北地方“農村、山村、漁村遍佈著淒慘的呻吟,這是昭和‘聖代’(即時代)人民隻能掘根而食的光景”。第二年亦即昭和六年(1931)依然顆粒無收,這一情況持續到昭和九年(1934)歉收:“從東北地方行至上野的火車裡,每天都有賣身的姑娘出現……能吃的隻有橡子……尋找蕨菜根充饑,借債去購米糧而變得負債累累的村子比比皆是”(勝田龍夫《重臣們的昭和史》等)。

因之,在京大事件發生的第二年即昭和九年的十月,陸軍省新聞班也就是情報部,開始大范圍地散發被稱作所謂“陸軍手冊”的小冊子,並提倡廣義國防國傢建設。為瞭防止大陸侵略政策所導致的社會不安定,秉持軍國主義的軍部的這一主張引起瞭很大轟動——小冊子中印有“消滅無視國傢的國際主義、個人主義和自由主義思想……向統一管制的戰時經濟過渡”等字句。

接著,我國陸軍開始與“新官僚”協作,在得到“観念右翼”精神支持的基礎之上,先於世界——納粹毋庸置疑是法西斯主義,於意大利侵略埃塞俄比亞之前故意制造瞭滿洲事變。軍部這一密謀成功地將滿洲國變作瞭傀儡,在承認瞭這一事實之後,以此為契機,斷然退出瞭國際聯盟。這是昭和八年(1933)二月至三月發生的事,幾乎與此同時,希特勒在德國確立瞭政權。

(四)

如此情勢像洪水一般湧來。且不說一般社會,無論是媒體還是政黨都開始追隨軍部,在各界於一片頌揚聲中隨波逐流的情況下,京都大學裡對此不關心或者持觀望態度的教員有多數也並非是難以理解的事。無論如何,拋開這樣的時代背景,京大事件就無從談起。

為瞭重建崩潰的法學部,學生中的有志之士和活躍在法律界的畢業生們也在集會進行活動。如果把這些也算在內,那麼京大事件實際上前後持續瞭有八個月之久。即便是在校內外情勢嚴峻的情況下,學生方面也還分頭去向畢業高中所在的地方城市,在特高[ii]警察和憲兵的重重包圍之下和前輩們集會,宣講京大事件。但是,重建法學部的目標卻並沒有實現。

更早之前,即七位教授親身踐行瞭“向死而生”之後的同年七月二十七日,特高以共產黨組織滲入瞭學生運動為借口,開始鎮壓並逮捕學生。重建法學部是戰敗後在占領軍的授意下,通過恢復瀧川教授(法學部長)的職位開始的,這當中我也盡瞭綿薄之力。

京大事件之後過去瞭二十年,在推進(經濟)高度成長的自民黨內閣首相池田的主導下,並且經文部省官員之手,《大學管理法》的問題於昭和十七年至十八年(1962—1963)被推上風口浪尖。當時我在大阪大學協助校長工作,不消說,在校內我也和其他學校保持聯系。我暗中想起瞭當年的京大事件,決定將當年的精神保持下去,為反對運動盡一些自己微薄的力量。

如今,我國正在進行所謂的行政改革,在與憲法相適配的情況下恐怕不久之後也會開始改革國防。而當下教育改革也正悄悄地斷然實行,大學等教研機構的師生,以及知識分子階層的苦難時代將不復來臨瞭。迎來紀念京大事件五十周年的日子,我開始深切地懷念而今早已故去的老師們,並且對發人深省的“向死而生”一語的應驗,有瞭更深的感慨。

[i]《文官分限令》為明治三十二年頒佈以保障文官資格與地位的法律,為“文官三令”之一,另兩部分別為《文官任用令》和《文官懲戒令》。

[ii] 特高課是日本間諜組織,建立於19世紀末20世紀初,全稱特別高等警察課,隸屬於日本內務省。

以下原文:

作者紹介:

森 義宣

一九一二年岡山市生まれ。三五年京都大學法學部卒。立命館大學を経て四九年から阪大教授、元法學部長。七五年退官。現在立命大などの非常勤講師。主著に『政治學史』(三和書房)『ヨーロッパ近代政治史』(同)『政治思想史』(世界思想社)

「死して生きる途」に感慨:大學苦難の時代また滝川事件50年に想う

(朝日新聞 昭和五十八年)

(一)

その當日は、もう夏苦しいほどの初夏の一日でした。夕方近くなっても変わりませんでした。大教室には千人の學生が入りこんでいたのですから、その人いきれと心のたかぶりで苦痛なくらいでした。

それは、昭和八年(一九三三)五月二十六日の午後五時半前後のことです。京大第一教室を埋めつくした學生は、東京からのある電報の到達を待ちかまえていました。

文部省から大學あてに、高等文官分限令を適用して刑法の滝川幸辰教授――その著書・學説が一般社會に対して悪影響を及ぼしたが故をもって、(違法かつ不當な手続きをとって)――を一方的に休職せしめた旨を通告する電報です。それが來れば、我々の恩師がたはそろって連袂辭職するというのです。その時は、この第一教室にそろって來場して、我々に辭職のやむをえないものであることを説明してくれるのであろうし、我々學生もこれを無條件で受け入れることにせざるをえないであろう。これの実現狀況を、私は、ある種の期待感と快哉感―正義の実現への參加のよろこびを含む複雑な、高揚した気持ちで待っていたように記憶します。

(二)

すでに知られているように京都大學では大正二―三年(一九一三―一四)にかけて沢柳事件という第一次京大事件があり、法學部と文部大臣の度かさなる折衝の結果、教授の人事は該當教授會の議にもとづいてのみ総長が文部大臣に具申し、そのままを文部大臣が実現すべきであるという二つの官庁間の規律が確定された次第であった。この規律が二十年後に文部省によって否定された所に第二次京大事件(滝川事件)が起こらざるを得なかった理由がある。

この京大事件は私が二回生になった四月の下旬に突如、新聞に報道されました。我々法學部の學生は早速、その出身高等學校ごとと同窓會単位で各數名の代表者を送って、対策をたて事柄の真相や構造について急きょ相互に研究し、若い教官にも助言してもらう一方、ドイツ大學、それに通ずるところのあるはずのわが國の國立大學の、「大學における自由=學問の自由並びに大學(學部)の自治」についての勉強の成果をもって、學內他學部の全教官に対して、三人一組となって手分けして訪問し、情報の提供を含めて、大學のためまた法學部のためにも協同して立ち上がって下さるように働きかけることになりました。しかし説得というかお願いの拙さのせいでもありましょうか、成果はほとんど言うに足るようなものがえられませんでした。

こうして五月二十六日の、冒頭に記した場面が來るのでした。待ちかまえる我々學生の中に、全教授・講師ほかの辭表を収めた紫色のふろしきをかかえた宮本英雄法學部長を先頭に、全教員が登壇し、辭職するという報告が重々しく強く行われ、學生もこれを感激して受容したのでした。「」

(三)

當時、世界大恐慌のなかで日本全國とくに東北等の「農村・山村・漁村は、ものすごい呻き聲をあげている。昭和の“聖代”(註・時代)に木の根を食って生きている村があるという有様である」と、大宅壯一氏が農村の窮乏・飢餓狀況を書いたのは昭和五年(一九三○)末のころである。翌六年(一九三一)も大不作――昭和九年(一九三四)の兇作とつづき「東北地方から上野に著く汽車で、毎日のように身売りする娘が現れた……どんぐりばかり……わらびの根をあさったり、飯米購入費の村債を起こす村も多い、という狀態」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』等)。

この結果、京大事件翌年の昭和九年十月には、陸軍省新聞班つまり情報部から、いわゆる「陸軍パンフレット」と呼ばれる小冊子が広く配佈された。広義國防國傢建設の提唱であった。大陸への侵略政策によって社會不安を防止すべしという軍國主義の軍部による主張であり、一大センセーションを巻き起こした。その中には「國傢を無視する國際主義、個人主義、自由主義思想を芟除……」「統制ある戦時経済への移行」などの文句もあった。

さらにわが國の陸軍は「新官僚」と協同し、「観念右翼」の精神的支援をえた上で、世界にさきがけて――ナチスはもちろんファシスト・イタリアのエチオピア侵略にも先んじて、満州事変を故意に行い、謀略的に満州國を軍部のロボットとして作ることに成功して、この承認を行い(一九三一―二年)それを契機として、國際連盟脫退を敢行するのである。これがドイツにおけるヒトラー政権の確立とほぼ同時の昭和八年(一九三三)二月~三月のことであった。

(四)

洪水のように押しよせるこうした情勢の中で、世間一般はむろん、マスコミも政黨も競って軍部追隨、ないしは禮賛の方向に流されていったのですから、京大內部においても無関心、もしくは日和見を決めこむ教員が多かったのも無理からぬことであったといえましょうか。ともかく京大事件は、こういう時代背景を抜きにしては語れないものでありました。

同事件は、崩壊した法學部再建のための學生有志や法曹にある卒業生の集會、活動を含めると、実に八カ月の長きにわたったのでした。學生側は、學內外の情勢がきびしくなった階段でも、なお手分けして各出身校所在の地方都市に赴き、特高警察や憲兵の重囲の中で京大事件を説明して先輩たちと集會を重ねました。しかし再建のめどは立たなかったのです。

それよりも早く、七人の教授が「死して生きる途」(恒藤恭先生)を実行されおえた同年七月二十七日が経過するや、突如として特高による、共産黨オルグの學生運動への潛入を口実とした學生への弾圧、検挙が開始されたのでした。再建は戦敗後、占領軍の意向のもとに京大に復帰した滝川法學部長によって開始され、私も微力ながら協力した次第です。

京大事件のあと二十年にして、高度成長を推し進めた自民黨內閣の池田首相のもとに、またしても文部官僚の手によって、昭和三十七年―八年(一九六二―六三)、「大學管理法」問題が火を吹こうとしました。私は當時、阪大にあって総長をたすけ、學內はもちろん他大學とも連絡してひそかに過去の京大事件を思い、その精神を持して、阻止運動に微力をつくしたつもりです。

今日わが國はいわゆる行政改革にひきつづき、憲法との兼ね合いのもとに、やがて國防改革も開始される恐れが強くなっています。現に既に教育改革がそれとなく斷行され始めており、大學等の教員・學生、そして知識層の苦難の時代が訪れようとしています。京大事件の五十周年記念日を迎えて、私は、今やすべて故人となられた先生方を切になつかしむ気持ちを新たにするとともに、改めて今、その見事ともいうべき「死して生きる途」の実現に感慨の深いものを覚えるのです。

发表回复

您的电子邮箱地址不会被公开。 必填项已用 * 标注

返回顶部